momy_kumura’s blog

なかなか真面目blog🤟命とか人生とか❤️

20.02.03 お通夜

お父さんを会社に送るために7時前に目を覚ました

1週間の出張を予定していたお父さん

朝一で1週間分の引き継ぎをして

10時半の打ち合わせには斎場に来る

お父さんを会社に送って斎場に戻ったのは8時ごろ

お母さんの友達やお世話になった人たちへ

お母さんの携帯からひたすら電話をした

みんな本当に驚いていた

私が中学生の頃に乳がんを患ったことも

私の部活の顧問の先生と限られた人にしか言ってなくて

1年前には私の結婚式で元気な姿を見せていたお母さんの急な訃報に

信じられないと言う声ばかりだった

もう一度会いたかったと言う人

なんで言ってくれなかったのと言う人

反応はそれぞれだったけど

お母さんは辛気臭いのが嫌いだから

元気な姿しか見せたくなかったんだと思う

私は何も言えなかった

 

2時間半はあっという間だった

10時半から打ち合わせ

祭壇の花のレイアウト

棺桶の種類

骨壷の柄

お礼の品

全てお母さんが好きそうなものに

私のセンスがお母さんに似てきててよかった

お父さんじゃわからなかっただろうから

立ち会ってよかった

火葬後の骨は分骨することにした

本気かどうかわからないけど

お母さんはお墓に入りたくないって言ってた

骨は海に撒いて欲しいとか冗談で

お母さんってそんな人だった

結局3人兄弟それぞれ自分好みの小さい骨壷を

斎場の担当の人に手配してもらった

 

打ち合わせが終わってからは実家に帰って

写真や思い出の品をかき集めた

遺影の写真は私の結婚式のアルバムから

まだ痩せていないお母さんの丸い顔

可愛かった

亡くなる直前に病室で読んでいた本

お母さんが描いた絵

趣味だったウクレレ

集めていたスカーフ

家のベットで一緒に寝ていたTEDの人形

BGMはDEPAPEPEの曲

そしてビーチ・ボーイズの神のみぞ知る

お母さんがよく聴いていたであろうCDの中から

夫が選曲してくれた

 

一度斎場に戻りすぐに自宅に帰り喪服に着替えた

 

斎場に戻り16時から湯灌

この時間はとてもゆっくり流れる

おくりびとってすごくいい仕事だと感じた

最後に頭を優しく洗われて

お母さんの花柄のワンピースを着せた

スカーフはお母さんが好きな巻き方で

最後のメイクは私がした

もうすぐ蓋が閉められて触れられなくなることを覚悟して

お母さんの肌に触れた

終わると棺桶の蓋が閉められた

その後は

みんなでお線香をあげた

半年前に妻を亡くして

そして娘まで亡くしたお母さんのお父さんは

とうとう声を上げて泣いていた

私はそれを見ていられなくて

何も言わず部屋を出た

 

お母さんの最後のセレモニーなのに

くたびれた靴しかなかったから

湯灌が終わるとすぐに天神に靴を買いに行った

ダイアナの定番

黒の9センチヒール

買い物は5分で済んだ

 

斎場に戻るともう人が集まっていた

お母さんの親友に初めて会った

お母さんが一番信頼して

全てを話した人

お母さんが辛い時寄り添ってくれた人

会った瞬間涙が止まらなかった

お母さんが最後にメールを送った人

都会的でかっこよくて温かい人だった

 

お通夜が始まった

父方のおじいちゃんのお葬式ぶりの浄土真宗

わざわざお父さんの地元の山口から来てくれた

まだ若い住職

説法がとてもよかった

 

私の会社の人もたくさん来てくれて

複雑な気持ちだった

会社のことは思い出したくなかったけど

みんな優しい言葉をかけてくれて安心した

 

お通夜が終わり

親族でご飯を食べているときに

地元の友達がたくさん駆けつけてくれた

嬉しかった

久しぶりにみんなと話すと

ホッとした

小学校の頃からみんな一緒だった

みんなのお母さんたちもずっと気にかけてくれてて

私は忘れられてなかったって安心した

地元を離れてから10年ほど

そこに実家があるわけではないから

友達の結婚式があるときくらいしか帰らない

SNSでみんなが集まってるのを見るだけだったのに

会うと昔に戻れた

 

生前、病室でみんなとの思い出話をした

友達に子供が生まれたこと

就職して頑張っていることなど

SNSや日々のやり取りのなかから

私の知っている限りの情報を話をしてあげると

懐かしがりながらとても喜んで聞いてくれた

 

みんなが帰ってからはお兄ちゃんやおばちゃん、おばあちゃんと

ずっと話していた

今までのこと、これからのこと

たくさん話した

 

お母さんはまた親族控室みたいな和室に運ばれていたので

同じ部屋に寝ようとしたが

何か込み上げてきて

寝付けなかった

結局ぐっすり寝ている夫を起こして

4時半ごろ

とても寒い朝

斎場のパジャマとスリッパで家に帰った

ベッドで夫にハグをすると

緊張の糸が切れたように

ぐっすり眠れた

 

 

 

20.02.02 お別れの日

この日のことを思い出すのはとても覚悟が必要だった

 

10時半ごろ病院の先生から電話があった

いつも通りの落ち着いた口調で

お父さんに連絡つかなかったからお嬢さんに電話しました

お母さんに痛み止めの注射をしていいですかとのこと

この言葉が何の意味を持っていたのかはわからなかった

その注射は麻薬みたいなもので打ったら意識が朦朧とする

家族の了承がないと実行できないらしい

お母さんの命が燃え尽きることを

意味していたのかもしれないと後になってわかった

私だけの判断でいいのかわからなかったけど

とりあえずお願いしますと言ってしまった

お父さんに電話

すぐに病院に向かう

 

病室に行くと

昨日とは全く違う姿だった

点滴を吊るす棒には大きな機械がふたつ

指先に挟む酸素を測る機械

血圧と脈拍を測る機械

酸素マスク

うわ・・・・

お母さんは苦しそうだったけど

顎で息をしながら私たちに気がついた

きついと一言

涙が我慢できなかった

やっぱり泣くと思ったってお母さんに言われた

正確に覚えていないけど昼間の時点では

脈拍の血圧も正常で

何時間も大きく深呼吸みたいに息をしていた

お兄ちゃん夫婦が到着

唖然としていた

こんなに悪いって知らなかったって

すぐに母方のおじいちゃんとおじちゃんに連絡をして

病室に集まることになる

お兄ちゃん夫婦はおじいちゃんを迎えに行った

昨日出来上がったばかりの私の結婚式のアルバムを見せた

とても喜んでくれた

 

元気になったらまたゆっくり見せてねって言ってた

まだ死ぬつもりはなかった

意識が朦朧としていたなか

私の新しいロングスカートを褒めてくれた

さすがだなと思った

お父さんが病室に戻ってきた

私はお母さんとずっと手を繋いでいた

お母さんは顔が小さいから酸素マスクがずれるのを直したりした

綺麗な個室に入院していたお母さん

お金がかかることをずっと気にしていた

お父さんはあまりお母さんを見ない

先生から呼ばれて

苦しそうなので眠れる点滴をしましょうとのこと

これを投与すると30分くらいで眠りにつきます

つまりその間で最後のお別れをってことだったのかもしれない

私もそのつもりになっていた

お母さんはわかったように

最後の言葉を口にした

いろいろ頑張ってね

すぐに泣くなと

お父さんには

ごめんね

ありがとう

って

 

私はお父さんをベッドの側に呼んだ

初めて手をつないでいるところを見た

 

最後の言葉は

おやすみ

 

そのあと

たまに目を覚ましては

意識が定まらないような感じだった

よくわからなかったけど何か話していた

 

眠りについてから

みんな病室に到着した

おじいちゃんには気づいてたのかな

しっかりしなさいよと言うおじいちゃんの顔を見て

小さく頷いていた

 

それからまた眠って

大きな呼吸を繰り返していた

 

今日のところはこのままだろうからと

夕方にはみんな帰っていった

私は病室に泊まることにした

夫に着替えを持ってくるようにお願いした

20時に仕事を終えて病院に到着するまで

ずっと手を握っていた

お母さんの左目から流れる涙を

ピンクのハンカチで拭いた

外来の看護師さんが来た

担当してくれてた人だったのか

わざわざ来てくれて声をかけてくれた

彼女は夜勤の看護師さんとお母さんの体勢を変えたりしてくれた

 

時間が経つのが早かった

夫が病室に到着しディルームで買ってきてくれた晩御飯を食べた

一緒にいてくれることが心強かった

部屋に戻ると脈拍と血圧が下がっているのに気がついた

看護師さんからは何も言われてないけど血圧が60切りました

とお父さんにメールした

それからは早かった

みるみる血圧が下がっていき看護師さんが病室に来た

お父さんを呼んでくださいとのこと

電話の声が震えた

お父さんはタクシーで病院に向かう

私はお母さんのもとに戻り

泣きながらお母さんありがとうと何度も叫んだ

息が小さくなっていった

いつの間にか息が止まっていた

お父さんは間に合わなかった

先生が病室に

2月2日21時44分に死亡が確認された

 

ちょうど一年前の2月2日は

私達夫婦の結婚式だった

 

昼間のメンバーが集まった

看護師さんが体を拭いてくれている間は病室の外で待機した

メイクは私がした

病院のものは使いたくなかったので

夫に持ってきてもらった道具

いつも私が使っているもので化粧をした

肌が綺麗で顔が小さくで輪郭が丸くて

目が大きくて鼻が高い

私の理想の顔だった

死人とは思えないほど

綺麗な寝顔だった

 

葬儀屋さんがきてすぐに運ばれた

葬儀場に着くと線香の向こうに眠るお母さん

さっきまで生きてたのに

生と死の境目がこんなにも薄いものかと感じた

 

葬儀の打ち合わせは私も立ち会った

お母さんのセンスや希望を一番わかっていたから

できる限り叶えてあげたかった

 

翌日の10時半から本打ち合わせ

19時お通夜、翌々日11時半にお葬式

 

みんなが解散したのは午前2時ごろ

その日は私と夫でお母さんのそばにいた

お母さんと並んで川の字に

冷たくなったお母さんの手を握って

5時ごろ眠りについた

 

 

 

 

20.02.12 夢の中の話

母の夢を見た

死んだ母が生き返ってた

緑ベースの赤が混ざった温かそうなシャツ

テーブルを囲んでとても元気なお母さんとお父さん

家族みんなからお母さんへのありがとうとさよならの手紙

4通あった

お母さんは読みたくないって言ってたけど

火葬されたら読めないんだから

今のうちに読んでてほしいと私から伝えた

もう1ヶ月後くらいには本当の死が決まってて

それが普通のことであるかのように過ごしていた

余命1ヶ月

夢の中でお母さんと2回ハグをした

確かに体温を感じた

 

 

今日は夫の仕事が休み

朝からジムに出かけていった

私は家でコーヒーとヨーグルトを食べながら

マイ・ベスト・フレンドを視聴

お母さんの闘病生活と重なる場面がたくさんあった

主人公が犯した不貞行為についてはもちろん違うけど

お母さんが家族と一人の親友以外に病気のことを言わなかったこと

お気に入りの靴や服を私にプレゼントしてくれた時の気持ち

家族への振る舞い

ホスピスについて

化学療法のことや薬の副作用

急激に痩せ細る姿

杖を欲しがってたこと

それでもオシャレで可愛くいたこと

私がお母さんの頬や髪に触れた時の気持ちまで

忘れられない映画になった

 

 

 

 

 

 

20.02.01 お別れ前日

再入院4日目

再入院に付き添ってから2日間会いに行けなかった

その2日間はメールも電話もなかったから

相当きつかったんだと思う

 

前日にお見舞いに行く旨のメール

返事は電話だった

 

体調良くなってないけん

って言われた

ちょっと覚悟した

 

2月1日は土曜日

お父さんと博多で待ち合わせてお見舞いに行く

面会は13時からなのでその前に博多で待ち合わせて

お昼を食べようということになっていた

お母さんに伝えると

先生の話があるからすぐに来て欲しいとのこと

13時半ごろに病院に着いた

ナースステーションには疲れきった顔の先生が

デスクで仕事をしていた

 

カンファレンス室

先生と看護師さん、ソーシャルワーカーさんがいた

再入院後再検査の結果

肝臓が腫瘍で埋まっている

リンパから肺に転移して肺に水が溜まっている

2月4日に予定していた新しい方法の治療が出来る体力がない

1度目の入院の時はご飯も食べれるようになったし

元気に動けるようになったので退院できたけど

同時に病気も活発になり身体を一気に蝕んだとのこと

お母さんは先生に

頑張って治療を続けたいって言ってたらしい

ただ、先生の表情から全て読み取れた

涙が止まらなくなった

部屋のドアの近くに座っていた私は

お母さんに涙がバレないようにずっと扉の方を見つめていた

 

一番先に部屋を出た

泣いちゃいけないのはわかっていた

ソーシャルワーカーさんが声をかけてくれて

さらに泣いてしまった

 

落ち着いてから病室に戻る

深刻な話をするのが嫌いなお母さんは

本心はわからないけど笑ってた

お昼を食べにお父さんと一度病室を出る

ナースステーションの前を通ると先生に別室に案内された

あと1ヶ月ぐらいだと思います

急すぎる余命宣告

お父さんの顔が赤くなる

私は一番聞きたくなかった言葉を聞き

力が抜けたように

涙を堪えようともしなかったしできなかった

何も考えられない

 

ご飯の味がしなかった

大阪にいるお兄ちゃんに連絡

来週帰ってくるとのこと

県内にいるお兄ちゃんとお嫁さんは明日お見舞いにくることになる

さぁ、あと1ヶ月でどうしようか

答えが出ないまま病室に戻った

 

お父さんは15時ごろ帰った

私はずっとお母さんといつものようにおしゃべり

お父さんの還暦のお祝いに下関のリゾートに行く計画を進めないとねと

あと1ヶ月の命であることは知る由もないお母さん

5月のお父さんの誕生日まで生きようとしていた

その後、昔からの夢だった

私とヨーロッパ旅行に行くことも

まだまだずっと生きるつもりだったんだと思う

お母さんに悟られないように笑顔で話すことに必死だった

顔を見られないようにお母さんのベットに横になり仰向けになった

18時に食事が来た時は

私の介助でトイレに入ったっきり30分ほど出てこなかった

もう歩くことさえできなくなってた

19時半

とうとう食事は一口も食べれなかった

水を少し含んだ

それが母の最後の食事

面会時間が終わる20時までずっと一緒にいた

 

夫が迎えに来てくれることが日常になっていた

この日は20時ちょっと過ぎ

余命宣告のこと言うべきが迷った

帰りの車の中で伝えた

手を繋いでくれる

そのあとのことは覚えていない

 

 

 

 

 

 

 

愛しのエリーへ

お母さん

本当によく頑張ったね

お疲れ様でした

お母さんは尊い存在で

不思議な力を持った人

お母さんの言葉でどれだけ救われたか

いまでも覚えているよ

テイク イット イージー

って言ってくれたことで

心の重たい石がふわっと

軽くなったこともありました

 

太陽みたいで

とてもセンスが良くて

多趣味で

絵が上手で

いつでも可愛かった

たくさん本を読んだし

いろんなことに挑戦して

育ててるバラが咲いたら

本当に嬉しそうなお母さんを見て

私も嬉しかったよ

 

街で可愛い服を見つければ

私に連絡をくれることとか

一緒に見た映画について

あーだこーだ言ったり

面白い本を貸してくれて

共通の話題が増えるのが嬉しかった

 

引越が多かったけど

その度に素敵な友達と出会えたね

私ににこにこしながら

美術館のこと

茶道が楽しいこと

ウクレレが難しかったり

絵が上手くかけたこと

友達と食べたランチが美味しかったこと

いつでも何時間でも話がつきなかったね

 

私に沢山の経験をくれてありがとう

素敵な選択をさせてくれてありがとう

いつも味方してくれてありがとう

 

お母さんが心配してたことは

私が引き継いだから

安心してね

 

大好きだよ

いつも忘れないよ

世界で一番愛してるよ

また会おうね

 

 

2020年2月2日21:44

母、恵理子が永眠した

59歳

 

2週間前病室で自伝を書こうかなと笑ってた

冗談だったのかはわからない

私が代わりに母の生きた証を

書きたいを思った

 

私の生活には母との思い出が溢れてて

そこで話したことや感じたことを

忘れたくないと思った

 

母の長年常に持っていた手帳をもとに

私の生活をもとに

備忘録

 

こういう方法でいいのかわからないけど

母の死と向き合う

 

お母さんが出来なかった終活を私が代わりにしていく感じ

 

母娘の終活